真っ暗に光る道路。白線を踏みながら車で帰宅する。
機能の帰り道、久しぶりに大雨だった。
轍に溜まった水たまりに足をとられながら帰る。
足をとられるたびに私の心臓は急げ急げと急かす。
私は、2011年3月11日、車で津波に突っ込んでいった。
この記事には、東日本大震災のときに大賀ずえが経験したこと、当時の状況や気持ちなど全てありのままの言葉で書きました。不快に感じたり、気分が悪くなるかたもいるかと思うので、予めご承知ください。
Contents
水たまりが不安や恐怖を思い出させる
私が苦手なものは水たまり。大雨の夜の道路にできた水たまり。条件は、1人で運転しているとき。
私の心臓がギュっとする。「早く帰りたい」あの日と同じ気持ちになる。光って見えない道路の白線。どこを走っているのかも分からなくなったあの日。
轍に溜まった水にハンドルがとられる。自分の足がまっすぐ前に進まないような錯覚になる。車と私は一体となっているんです。
法定速度の半分くらいのスピードで車をそろそろ運転する。
2011年3月11日 私は職場で被災した
2011年3月11日。私はスーパーマーケットで総菜の製造販売を行っていた。パートさんに指示をだし、私も3時からのセールに備えて、天ぷらを揚げ始めたのが2時46分前後だった。
大きな地震があって、一度フライヤーから離れた。
「大きい地震だったね」
なんて言いながら、またフライヤーに戻った。なんか様子がおかしい。小さく揺れている。長く揺れている。
また揺れた。
待っていれば落ち着くかもしれないって、みんな思っていた。
「逃げろ!!」
ある年配のパートさんが叫んだ。その声につられてみんな一斉に店内に飛び出した。
天井が落ちてきていて、棚も崩れて、缶チューハイが散乱していた。
目の前にいた、動かないおばあさん(お客さん)を引っ張り出した。
「私はいい。落ち着くだろうから。」
腰を抜かして動けないおばあさんは、動かないと言い張る。パートさんと私で無理やり腕を引っ張って外に連れ出した。動けなくなった大人を運び出すのはとても大変だった。足元には缶が転がっている。防炎シャッターがギロチンのように落ちてくる。
やっとの思いで。
天井まで届いたフライヤーの油
普通じゃないとき、なぜか普通なことが気になってしまって仕方がなかった。
- ガスの元栓を占めていない
- 数週間先まで予約のリストがある
使命感に燃えていた私は、危ないと言われながら、店内に戻ってガスの元栓を締めて、営業ができないという連絡をするために予約票を持ってきた。
今思えば、これは絶対にしてはいけないこと。二次被害にあう可能性は大いにあった。
天井に達した油を見て、初めて私はことの重大さに気がついた。
もしあのとき、パートさんが「逃げろ!」と言わなかったら、私は180度の油を全身に浴びていたのだ。
指示を出せなかった上司 誤った判断
その日は店長が休みだった。副店長しかいなかった。副店長は判断がだせず、ずっと駐車場に私たちを待機させていた。当然だけど、電話も何もつながらない。本部とは完全に遮断されてしまっていた。
2時間くらいたってから、上司Aが来た。
「水道管が破裂して水浸しで、通れない道ばかりで」と話した。
それでやっと帰宅指示がでた。もう5時になろうとしたころ。
この時点で、港はすでに津波が来ていた。工場では炎が燃え上がって火柱ができていた。
3時すぎに近くの役場の職員は全員帰宅していた。防災無線が壊れていたからという理由で、街頭放送が1度も放送されることはなかった。
大渋滞それでも帰りたかった
ショッピングモールに、避難している車が多数止まっていたのを横目で見た。一瞬悩んだ者の、早く帰りたいその一心で私は渋滞に並んでいた。
道路をゴムボートで移動するお巡りさん
消防の方かお巡りさんか分からないけれど、ゴムボートを持ってきて水の上に乗せていた。
この時、私は聞けばよかった。状況を。でも上司Aの水道管破裂をそのまま鵜呑みにしていたのだった。
道路が川になっていて迂回。そんなとき海外線を通れば早く家に帰れると思った私。
海岸へハンドルを切った。目の前には水溜り。
小さな水溜りはだんだんと高くなっていき、気がついたら水はボンネットを超えるくらいまでになっていた。少しずつ車内に浸水してくるようになって、どうしていいかわからなくなった。
遺書を母に送り続けた
不安な気持ちはメールで送るしかなかった。何回かに1回はメールが送れる。私は母に死ぬかもしれないというメールを送り続けた。
エンジンはきらなかった
エンジンを切ってしまったら、もう動かないのではないかと思いきることはしませんでした。ぷかぷか水に浮きながら考えてみました。
ゆっくりRに変えて、ゆっくり踏んでみたら後ろに下がった!
船の舵をとるように、ゆっくりゆっくり方向を変えて、来た方向に戻ることができた。
道路にタイヤがつくようになって初めて、私は冷静になった。私が焦っていたことに気がついた。
真っ暗で信号さえついていない道
それから迂回迂回迂回、で、私が知っている道は通れませんでした。だから自宅の方向に向かって、通れる道を通っていって。車は浸水して壊れてしまって、ずっと室内灯がついたままでした。恥ずかしいという気持ちよりも、生きて戻れて良かったってほっとしていたのを覚えています。
道路には、コンテナや自動販売機などいろんなものが転がっていた。
いつもとは違う景色に、私はドラマを見ているような気持ちだった。
自宅に着いたのは深夜0時を過ぎていた
やっとの思いで自宅についたときには深夜0時を回っていた。あたりは静まり返っていて、我が家くらいしか電気がついていなかった。
涙を流した母
私が帰ってきて、母が涙していたのを見た。ほっとしたようだった。
黙ったままの父
父は黙っていた。嬉しそうだった。
父は、迎えに行くと盛り上がっていたようで、母は二次被害に遭うかもしれないからここで待つとなだめていたらしい。
災害が起きたとき情報収集はどのくらいできるかが生死をわける
私が生死の境を体験して分かったことを記載します。私の子どもに絶対に言い続けることです。精神論と思われるかもしれませんが、日ごろから考えていないと絶対に行動ができません。
- 身の安全を確保すること
- 生きていれば必ず会える、自分の安全を第一に考えること
- 最大限の情報収集をすること(1つの情報で納得しない)
- 焦って帰ろうとしないこと
- 水を確保すること
- 場合によっては一晩外で過ごすことも検討すること
- 近道をしようとしないこと
- 自分の頭で考えること
- 普段から様々な道を通るようにして、地理を把握しておくこと
生きていれば必ず会えます。一時の不安に負けないで、まずは自分の身の安全を考えましょう。
私の最大の敗因は、上司Aの「水道管破裂していて」の言葉だけを鵜呑みにしてしまったこと。実際には、津波も来ていた。冷静なつもりでいても、不安やあり得ない状況に「普通」の精神状態ではなかったので冷静に判断できていなかったと思う。
もし、あのとき私の後方の車の人が通りすがりの消防隊員に聞いていた時、私もおりて話を聞いていたらこんなことにはならなかった。
みんなが迂回した方向に進んでいたら、津波に巻き込まれなかった。(早く帰りたいとしか考えていなかった)
今考えれば、巻き込まれないポイントはいくつかありました。通常の精神状況ではいられなくなるのが災害です。
自分は大丈夫。ここは大丈夫。
そんな根拠のない自身はいますぐ捨てましょう。東日本大震災が起こったように、いつどこでどんな想定外の出来事が起こるか分からないのが世の中です。
私は自分の子どもに、何回も繰り返し言い続けると思う。
私が体験した恐怖は、私だけで充分だ。